深谷 宏治
レストラン バスクのシェフでもあり店主でもある。
現代スペイン料理界の第一人者のひとり、ルイス・イリサール氏についてバスク料理を中心にスペイン料理を修業。帰国後、レストラン バスクをOPENする。



レストランバスクの指針

①渡欧~スペイン・バスク地方(サンセバスチャン)での修行

1973年に料理の道に入って洋食を選んだ。修行をしていく内に、洋食の源であるヨーロッパの料理を知らなければ、お客様に責任ある料理を出せないのではと思い、1975年から1997年末まで渡欧してきた。ひょんな縁からスペイン・バスク地方にあるサンセバスチャンで、仕事に就くことが出来た。正確に言うと、サンセバスチャンから11km離れたオイヤルソンという小さな村にある「グルエッベリ」というホテルレストラン。料理人は全部で15人位、シェフは「ルイス・イリサール」で、今では『バスク料理の父』と言われ未だ健在。仕事を始めた頃、スペインはまだランコ将軍が統治しており、途中で亡くなる事によって劇的に変化した時代だった。まだEUに加盟しておらず、今のスペインと比べると本当に別世界。料理に関しては、仔羊は皮を剥いだ状態で一頭入り、鳩や鴨などはハンターが撃ち落としたものが持ち込まれた。時には、厨房に生きたウサギや鴨が届けられ、おとすところから始め、皮を剥ぎ、部位に分け、血はソースに使った。カタツムリは、雨が上がった後、料理人皆でボールを持って取りに行った。秋になると袋を持って森に栗拾いに行き、スペイン人がよく食べるマグロやポルチーニ、果物のコンポートは瓶詰にしてストックした。そういう事をしている店だった。「太陽のエネルギーを基にして、この地球の生物があり、その頂点に人間が君臨している中で、料理人は素材をどう処理して無駄なく美味しい一皿にするか」、それが料理人の使命だと思っていた私にとって、この店は夢に見たような店だった。ここでスペイン・バスク料理を勉強した。ただし、今では残念ながら日本と同じような状態になってしまっている。

②ルイスからの教え

ルイスには、料理だけではなく、「料理人はどう生きるべきか?」という事を教えられた。ある時「宏治、今日の昼休みは何か用事があるか?」と声をかけられ(スペインでは昼休みが3時間位あった)、「何もない」と答えると、「じゃあ、俺についてこい」と言われ、車でサンセバスチャンのある所に連れて行かれた。今でもそこがどこだったかわからないのだが、教室の半分くらいの所に10人位のコック服や普段着の人がいた。そこで何かをするという。聞くと「今日はキノコの勉強会だ。皆自分の料理を教え合うのだ」と言われ、初めは何の事かわからなかったのだが、「ソテーした時に卵黄をつけた方が美味しい」とか「ニンニクをあまり使わない方がいい」とか、皆自分の料理法を話している。渡欧前、日本で修業している時、先輩に作っている料理を聞くと「そのうちわかる」の一点張りだった。どうしてもと思った時は(ホテルにも勤務していたので)泊まりの時に焼き鳥を買って来て食べてもらい、機嫌の良い時を見計らって聞いていたものだった。それなのに、自分の技術を教え合うなんて!ルイスにそのことを言うと、「俺たちも少し前まではそうだった。でもこのサンセバスチャンの料理人は、自分たちの技術を教え合うことによって技術を共有し、町全体の料理技術を高めるのだ。そうすればマドリードの食いしん坊達は、美味しい物を食べたくなるとこの町に来なければならなくなる。政治家は議会で、スポーツマンは試合で、そして料理人はこの料理を作り、マドリードの奴らに勝つのだ!そしてこのサンセバスチャンを支点にして、50kmの円を描くと、リオハのワイン、フランスのフォアグラとトリュフ、そしてカンタブリアの魚介があり、これらを使って世界の美食の街にしてみせる!」と言っていた。びっくりしたけどスペイン人は大げさに話すからと思い、冗談だと笑っていた。今では世界一の美食の街と言われているサンセバスチャンの43年前の話である。

③帰国~「レストランバスク」オープン

1978年に、ルイスに日本に帰る事を伝えると、「なんで日本に帰るんだ!お前はこの地にぴったりの人間で、仲間がいっぱいいるのに。ポジションは空けておくから、日本が嫌になったらすぐに帰ってこい。そして、もしレストランを開く時があったら、ちゃんとした店をやれ。ここで修業した事を忘れないで。」と、釘も刺された。1981年10月に、カミさんと「プティレストランバスク」を賃貸物件で、内装だけ直してオープン。1985年2月に現在の店「レストランバスク」を、バスクの民家風に設計し建て、満を持してオープンさせた。店内は、日本人が考えるスペインレストランの、少し薄暗い中でホタテの貝殻を埋め込んだテラコッタ仕上げの壁に、フラメンコ音楽ではなくクラシックなBGM。テーブルにはダブルの布をかけ、フォークとナイフが並べている。私は、サンセバスチャンにある普通のレストランを作り、ルイスから言われたまともな、バスク人が来ても恥ずかしくないレストランを目指した。まずパンだが、売っているパンに納得がいかず、パン屋さんを3軒訪ねて自分が欲しいパンを作ってくれるよう頼むが「そんなパン出来ない!」と拒否され、仕方ないので自分で作り始めて今日まで至っている。スペイン料理に欠かせない生ハムだが、当時は輸入禁止で日本で作っているところがなく、自分で作り始めた。豚の腿に塩をして、表面にカビをつけ、チーズを作るのと同じように時間をかけ乳酸発酵をさせて美味しくさせる生ハム。かたや日本でも生ハムと言われているものはあったが、スペインやイタリアのものとは作り方が全然違う、豚肉に調味液などを浸して作ったものだった。シシトラというソーセージ、缶詰しかなかったので作り始めたアンチョビ。日本にない野菜は、今でも猫の額ほどの畑だが無農薬、無化学肥料で作った。酢やシードル、チーズも作ってみたが、思うようなものが出来なかったので、今は作ってない。食材は珍しいものではなく、函館が位置する渡島半島のものをメインに、一部は青森、オリーブオイルなどはスペインのものを使っている。春の山菜、秋の天然のキノコは、レストランバスクの定番になっている。調理法はバスク人が長い歴史の中で培ってきた調理法を尊重し、まだ日本では食べられていないバスク人が愛している料理を提供し続けた。そのため、現代スペイン料理と言われている、個人の創造性のこだわりや、煙が出たり火花が散るような驚き、皿に花を散りばめてインスタ映えするような料理ではない。

④「ガスバリ」発足

店が安定してきたので、1998年に食に携わるプロと思える人たちに声をかけ、同業異種の会「クラブガストロノミーバリアドス(通称ガスバリ)」を立ち上げた。月に一度仲間の店に営業が終わった頃に集まり、普段出せない料理や飲み物を楽しみながら、情報交換、各自の料理に対する考えや夢などを語った。この集まりに、食材やその道に関するプロの人たちに講師として来てもらい、お話しをしてもらった。小麦粉の事は日清製粉の人に、函館及び周辺の水については水道局の人に、函館周辺の海の構造と魚介の環境については北大水産学部の先生から教えていただき、勉強会は長く続けた。

⑤スペイン料理を確固たるものに

1990年代終わり頃から日本でも「レストラン エルブジ」のフェラン・アドリアが話題になってきた。2000年に、私は柴田書店から「料理、料理場、料理人」という本を出した。それらの影響ばかりではないと思うのだが、この頃からスペインレストラン、バルが街で見かけるようになってきた。以前、バルセロナオリンピックの時、マスコミでスペイン料理が取り上げられたが、中身が良くなかったせいかオリンピックが終わると同時に消えてしまった。そのことが頭にあり、この流れを確かなものにしたく、一度「スペイン料理フォーラム」を開催して、日本におけるスペイン料理の土台を作りたいと思った。今は亡き料理記者、岸朝子さんに相談にいき、やる目的と内容を説明した。岸さんからは「このような催しは、企画会社か行政がやるもので、料理人なんかにできるわけがない」と言われたが、当時のフレンチ、イタリアン、中華の料理界の巨匠を紹介してもらった。2004年2月16、17日の2日間で「進化する日本のスペイン料理」、「外から見た日本のスペイン料理」のフォーラムの他に、記念パーティー、スペインから招待したシェフ、ミゲル・オドリオソの料理教室など8つの企画で構成した。その中の一つに、スペインの食文化の基盤になっていると考えたバル文化をしってもらいたく、「一夜限りのバル街」があった。

⑥「バル街」誕生

サンセバスチャンの旧市街地にはバルやレストランが密集しており、カウンターにはピンチョスという一口サイズのおつまみが並んでいる。入って好きなものを手に取って、注文した飲み物と食べてから、何を食べ何を飲んだか自己申告して支払う。そして次の店に行き、また同じような事をする。もちろん飲み物だけでも良い。日本で例えると、焼き鳥屋に入り、焼き鳥一本とビールを一杯。次に寿司屋に入り、寿司一貫に日本酒を一杯飲むようなものである。サンセバスチャンのこの楽しい文化をどうしたら体験してもらえるか考え、店25軒に出かけ、前もって売ったチケットをお客様が持ってきたら、飲み物と前菜を値段の合う範囲で出してくれるよう頼んだ。参加店を函館の西部地区の地図に示し、各店の普段の特徴と当日の前菜、飲み物の情報も入れた。チケットは5枚綴りにして5軒行けるようにして、400冊販売した。終わってみると、一緒に飲み歩いた岸さんやシェフたち、そしてあの辰巳琢郎さんから「このバル街すごく楽しい!これ続けてみたら」と言われた。そして一夜限りのバル街だったのだが、同年秋に2回目を次の年の春には3回目となり、今年の9月2日で30回目になった。今では、チケットが4800冊位売れ、今回は81軒が参加する大きさになった。全国にも広がり、200箇所位の街でやっていると思う。名前は色々あるが、同じシステムで行っている。

⑦「世界料理学会」開催

2009年からは、「世界料理学会 in Hakodate」を、一年半に一度の割合で開催し、2018年4月で7回目になった。名前に恥じなく、日本の有名なシェフたちだけでなく、世界の有名なシェフたちも参加している。今回のテーマは「山菜」。過去には「タラ」、「海藻」、「発酵」、「イカ」でやっている。学会の合言葉は「料理人による(料理に携わる)料理人の為の料理学会」。そのベースに料理に対する情熱の共有がある。

⑧「はこだてガストロノミーカレンダー」の制作

2009年から、ガスバリの仲間を中心とした函館の料理カレンダーを作っている。各自「これだ!」と思う食材を旬の月にあて、その月になるとその料理が食べられるという仕組みにしている。食材の良さだけを売るのではなく、料理人が仕事をした一皿にしている。カレンダーは毎年販売しており、利益は世界料理学会の資金に一部にしている。そのおかげで料理学会は補助金やスポンサーなしに、自由にやれている。

⑨「港の庵」の立ち上げ

2015年4月、ソシエダガストロノミー「港の庵」を立ち上げる。明治35年建立の海産物問屋旧松橋商店の建物を復元。プロの厨房器具を入れた、男の快食倶楽部として仲間と共に料理を作り、食べ飲み楽しんでいる。


長い文章に付き合って下さり、どうもありがとうございました。これからも、レストランバスク、バル・レストラン ラ・コンチャをよろしくお願いします。

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